私立の女子達にしか出せない透明感に憧れる時代
「自分らしくいる」
「自分っぽい」
「自分」てなんだろう。
なんて、考え始めるとほんとうにとりとめもないのだけど。
「男らしい」
「女らしい」
「子供らしい」
「大人っぽい」
「おしゃれっぽい」
「らしい」とか「ぽい」がつくだけで、
なんだか急に行動を制限されてしまう気がする。
最近では性別に関することがとても公になってきたし、
「男らしい」とか「女らしい」なんて言葉は
なんだか敵対視されているけれど。
それでも「それらしくいること」は、もうきっと無意識レベルで染み付いている気がするのだ。
「脚を開いて座る」なんて女性がしているのを見たら
やっぱりわたしは残念に思ってしまうし。
でも性別という枠を越えて活躍している人を見ると素晴らしいなと思うし、
性別なんていうちっちゃい枠に囚われている自分を恥ずかしくも思う。
それでも制限されることでしか生まれないものはあるなと思う。
制服とかはもうその最たるもので。
なぜそうなのか意味がわからないような着方を強要されて、その当時は、なぜっていう思いしかないから、着崩してみたりとか変化を加えて着ていたりするんだけど、そんな変化のある着方なんて許されない厳格な私立の女子には、確実に清潔感や透明感や上品さがあった。
そして男子は、その雰囲気に確実に弱かった。
篩にかけられて余分なものははねられて、その後に残ったふわふわとした綺麗な粒のような女の子たち。
その鎧のような制服の内側はきっとそんなに綺麗なものじゃなくて、ドロドロしたものにまみれているのかもしれないけれど、でも、その鎧で行動を制限されていることでしか生まれない雰囲気は、つくろうとしてつくれるものではないのだ。
上質なお菓子は必ず粉をふるいかけて作られる。
わたしは、ざっくり感を残すためにその行程をしないで作られるスコーンが大好きだ。
でも、特別な時には上質なお菓子を食べたくなってしまうのも事実。
「今の時代は自由すぎる」なんて思わない。
自由を求めた結果、そうなっただけのこと。
だから、今度は逆に制限されることに憧れを持ってしまうのかも。
わがままだなぁ。